子育てコラム(77)「孤独というお守り」

☆店主カワムラの子育てコラム☆

毎月発行しているメールマガジに連載している、
店主カワムラにによる子育てコラムのバックナンバーを紹介します。
子育ての中で、父として感じたこと、
学んだことを織り交ぜて書き綴っています。
上から目線でアドバイスと言うよりむしろ、
わが子と向き合いながら、迷ったりうろたえたりしてることを
正直に書いているつもりです。
共感したり、参考にしていただければ、さいわいです。

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 2022年6月

 b-Cafe店主カワムラです。

 先日、ぼくが気まぐれに投稿しているSNSの記事に、まったく反応がない、ということが4日ほど続きました。 

 そもそも、SNSに対する関心そのものが低いのですが、全くの無反応というのはさすがに気になる。

 「何かイカンことしたんやろか」「もう忘れられてしもたんやろか」と、軽く凹んでいたのですが、ふと気づいて「公開範囲」をチェックしてみたら、ここ数日の投稿が何故か「自分のみ」になっていました。

 自分のスマホでは表示されるけど、他の人たちには見えていない。そりゃ「いいね」もつかないはずです。

 ぼくが学んでいるアドラー心理学での考え方の一つとして、人はみんな、それぞれの色眼鏡をかけて、それぞれ違う見方で世界を捉えている、というのがあるのですが、このSNSの一件で、そのことを改めて実感したのでした。

 「誰もかまってくれない」といじけている人があったとしても、それはそもそも、その人が、人の中に出て行っていないからなのかもしれない。そもそも人との関わりを拒んでしまっているのに、かまっても何も無いわな、みたいな。

 人はそうやって、それぞれの「思い込みの世界」を生きているのだと思います。そして、自分を外から見ることはできないので、そういう思い込みから自由になるのは難しい、というか、たぶん不可能なのだと思います。

  *

 人はものごとを自分の見方でしか見られない。

 これは「私の当たり前は、他の人の当たり前ではない」とも言い換えることができます。

 当然のことのようですが、人って案外たやすくそのことを忘れてしまうように思います。

 世の中の争いって、ほとんどがこのことから来ているのではないか、とも思います。それぞれが違った世界観を前提にして暮らしているのに、そのことを忘れてしまって、お互いの「当たり前」を通そうとして、衝突してしまう。

 愛し合うカップルが一緒に暮らし始めて必ず直面するのがこの危機で、多くの夫婦がこの亀裂を埋められないまま壊れてゆくのだと思います。

 だから、コミュニケーションが大切なのだと思います。

 理解し合って、すり合わせのポイントを探って、より良いやり方を考える。

 いきなり自分の「当たり前」をぶつけても、相手は相手の「当たり前」を投げ返してくるばかりで、力関係でどちらかが自分の我を通せることはあっても、問題の根本的な解決にはつながらないでしょう。

 理解し合うためは、主張することと併せて「聴く」ことが大切です。どちらかというと、ぼくらはつい、一方的に主張してしまいがちなので、「聴く」方にだいぶ比重を寄せるくらいの心持ちで丁度良いのではないかと思います。

  *

 子どもとの関わりにおいても、こういった考え方がとても大切だと思います。

 子どもは子どもの視点、世界観で生きていて、親はそれを推測できたとしても、本当のところは、確かめなくてはわかりません。

 子どものいたずらだって、本人からすれば抑えられない好奇心からくる、実験や探検なのかもしれません。

 「ほいくえんいかない!」というのだって、話を聴いてみれば、親には思いもよらない意図があるのかもしれません。

 子どもとはいえ、子どもの人生は親の人生の一部ではありません。

 最初から別のもので、それぞれの方向に違う道を歩んでゆくんです。

 だから、離ればなれにならず、適度な距離を保つためには、細やかなコミュニケーションが必要なのだと思います。

 子育ての中で、子どもについて「どうすればいいんだろう」と思い悩んだときは、子どもに聴いてみるのが一番だと思います。しっかりと耳を傾ければ、子どもはきっと、思いもよらなかったヒントを与えてくれるはずです。

  *

 「人はみんな、それぞれの色眼鏡をかけて、それぞれ違う見方で世界を捉えている」ところに話を戻します。

 人はそれぞれ別の人生を歩んできて、それぞれの世界観を築き、それを前提として暮らしている、ということは、人はひとりひとり、別の世界に暮らしている、ということです。そういう意味では、人は絶対的な孤独から逃れることはできないのだ、と言えるでしょう。

 「孤独」というと寂しいような気がするかもしれませんが、ここには救いも含まれています。

 ひとりひとりが違うのだとしたら、自分と人との違いを気にしなくてもいいのです。

 「私はみんなと違う」というように、「じぶん対世間一般」で考えることはないんです。

 そもそも「世間一般」とか「ふつう」なんて幻想なのだから、そんなものと自分を比べてしんどくなるなんて、ばかばかしいことなんです。

 そう考えると、もともと人は一人なのだ、という「孤独」が自分を支えてくれるお守りのようにも思えてきます。

 そして、人はそんな「孤独」を生きているゆえに、人と繋がり合えたと感じられる瞬間に、深い喜びを感じることができるのだと思います。