子育てコラム(62)「生き抜く力」

☆店主カワムラの子育てコラム☆

毎月発行しているメールマガジに連載している、
店主カワムラにによる子育てコラムのバックナンバーを紹介します。
子育ての中で、父として感じたこと、
学んだことを織り交ぜて書き綴っています。
上から目線でアドバイスと言うよりむしろ、
わが子と向き合いながら、迷ったりうろたえたりしてることを
正直に書いているつもりです。
共感したり、参考にしていただければ、さいわいです。

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2021年2月

b-Cafe店主カワムラです。

 収束の見えない騒ぎがずっと続いていて、世間に、じっとりとした不安が広がっているように感じます。
 こういう状況の中で、希望を失わずにいるにはどうすればいいのだろう?そのことをどうやって人に伝えられるだろう?と思って、第二次世界大戦中のナチスドイツのユダヤ人迫害を経験し、生き抜いた心理学者の手記を読んでみました。

 さらに、この出来事を多角的に知りたくなって、映画を観たり物語を読んだりしているところです。
 気持ちが沈んでしまうくらいにつらい内容ばかりなのですが、そんな中でも、絶望にとらわれずに生きようとした人々の姿も描かれています。 


 アウシュビッツに代表される強制収容所に送られた人々は、呼吸もままならないぎゅうぎゅう詰めの列車から降ろされたとき「せめてこれだけは」と思って持って来た、なけなしの家財すら全て奪われ、身一つで列に加わります。


 列の先では最初の「選別」が行われます。ここでは、労働に適した者、そうでない者が振り分けられ、病弱者、老人、多くの女性、子どもを含むおよそ9割の「労働に適さない者」がそのままガス室に送られました。


 選別で生き残った1割の人たちも、なんとか命を繋ぐにも到底足りないような貧弱な食事のみで、日々過酷な労働に就かされました。


 そもそも囚人達を生かすつもりはなく、働ける者は力尽きるまで働かせた上で、死なせる方が無駄が無い、という考えでした。


 収容所に連行された時点で、それまでの社会的地位も財産も、そして家族すら奪われて、死に囲まれた劣悪な境遇のなかで、いつ終わるとも知れないまま、過酷な日々が続きます。


 先の心理学者は、そんな日々を生き抜くためには、人生の捉え方を大きく転換する必要があった、と述べています。


 それは、生きるということは「人生が私に何を与えてくれるか」を考えるのではなく、「人生が投げかけてくる問いに、私がどう答えるか」なのである、ということです。


 人生が「与えてくれるもの」を期待しているのでは、全てが奪われた状況では、絶望しか残らない。けれど、あらゆる状況に対して、私がどう考え、どういう態度を取るかは、私が決めることができる。そして、その「意思」は誰にも奪うことはできない。


 ではその「意思」を支えるものは? 


 あらゆる状況の中で「それでも生きてゆく」と決意するためには、基本的な「生の肯定」が必要です。何が奪われようと、生きることには意味がある、と思える信念です。


 どんな意味があるのか、と意味を求めるのではなく、生きることそのものに意味があるのだ、と捉える姿勢です。
 ただ、「生きることそのものに意味がある」と頭で「考える」だけでは、弱い。必要なのは、「考え」だけではなく、身体の内から湧いてくるような「感覚」だと思うんです。


 その「感覚」を育てるのは、生きていて実際に味わった、心地よさ、嬉しさ、愛おしさ、そして、美しさ、おいしさ、不思議さといった、実際の体験なのではないか、そしてそれらを深く味わうためには、それとは逆の辛い体験も時には必要なのではないか、と思います。


 つまり、積極的に様々な経験を積んで「生きるっていいなあ」ということを「考え」だけはなく、身体の感覚として育ててゆこう、ということ。


 平たく言えば、日々をていねいに、いつも感性をみがいて、しっかり深く味わおう。しっかり愛そう。愛されていることに気付いていよう、ということです。


 ・・・ものすごく硬い話でごめんなさい。でもこれが今の時点でぼくがお伝えできる、いちばん新しい気づきなのです。
 来月はもう少しやわらかいお話ができれば、と思っておりますm(_ _)m