☆店主カワムラの子育てコラム☆
毎月発行しているメールマガジに連載している、
店主カワムラにによる子育てコラムのバックナンバーを紹介します。
子育ての中で、父として感じたこと、
学んだことを織り交ぜて書き綴っています。
上から目線でアドバイスと言うよりむしろ、
わが子と向き合いながら、迷ったりうろたえたりしてることを
正直に書いているつもりです。
共感したり、参考にしていただければ、さいわいです。
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2021年5月
b-Cafe店主カワムラです。
今回はちょっと長めなので、休み休み、目を通していただければありがたいです。
ぼくが学んでいる、アドラー心理学にもとづいた子育てでは、はっきりとした「子育ての目標」が設定されています。
それは、子どもが「自立して、社会と調和して暮らせる」ということ。
これが「行動面の目標」と呼ばれ、この「行動面の目標」を支える「心理面の目標」として、子どもが自分のことを「私は能力がある」「人々は私の仲間だ」と感じられる、という「心理面の目標」が提案されています。
これらは、アドラー心理学の基本的な概念である「共同体感覚」をわかりやすく言い表したものです。
人は社会に組み込まれた存在なので、一人では生きていけない。そんな人同士がお互い補い合い、助け合ってゆくために「共同体感覚」を持って暮らしてゆこう。そして、これからの社会を形づくってゆく子どもたちの内にも「共同体感覚」を育ててゆこう、という思いが、アドラー心理学の根底に流れています。
子どもが「共同体感覚」に向かうよう、配慮し工夫して接することを、アドラー心理学では「勇気づけ」と言います。
「私は能力がある」「人々は私の仲間だ」という「心理面の目標」ですが、これは同時に、人が生きていて「しあわせだ」と感じられる状態を表現しているように思えます。
「私は社会の一員で、自分を取り巻く人々は私の仲間だし、そんな人々のためできることが、私にはある」と感じながら日々を送れている。
親は誰でも子どものしあわせを願うものですが、その「しあわせ」の中身を、みごとに具体的に言い表してくれているように、ぼくは思います。
*
アドラー心理学にもとづく子育てを体系的に理解するために「パセージ」というプログラムがあるのですが、この中で学ぶことの一つに「課題の分離」というものがあります。
人は生きてゆくうえでさまざまな問題に直面し、解決を迫られますが、その結末が主に子ども自身にふりかかる場合、それを「子どもの課題」と言います。子どもの課題は、子どもが解決すべきものです。「自立」するためには、自分の課題を自分で解決できなければなりません。
逆に「親の課題」もあって、これは子ども同様に、親が自分で解決すべきものです。ここで強調したいのが「子どもに対する親の期待」も「親の課題」である、ということ。
「清く正しく健やかで、学業優秀スポーツ万能」ということを子どもに望むのはいいのですが、それはあくまでも親の勝手な期待であって、それを押し付けられるのは、子どもとしては迷惑でしかありません。
親の願う型に子どもを当てはめようとするのではなく、その子がその子として、自分の人生を愛し、その子のやり方でしあわせを築いてゆく応援をするのが、親の役目だと思います。
子どもとのトラブルの大半は、子どもの課題に親が土足で踏み込んだり、親の課題を子どもに押し付けようとすることからきている、と言えるかもしれません。
*
さてさて、ウチには、中一と高二の男子が二人がいます。
中学校は給食が出るのですが、兄ちゃんは毎日お弁当を持って行きます。
そこで出てくるのが「弁当箱を出さない問題」。
「上靴を洗う問題」とか「水筒を出さない問題」とかと同様、多くのお家で勃発する案件だと思います。
最初はうるさく「弁当箱出してよね」と声をかけていたのですが、キリがなくなってきたので、
1.夕食までに出したらこちらで洗います
2.それ以降は自分で洗ってください
3.翌朝になっても出ていないときは、お弁当を作りません
という取り決めをしました。
その後もなかなか出してこなくて、ぼくが寝る頃になってもまだなので、はらはらしながら床に就いて、翌朝見たら、ちゃんと洗い上げてあってほっとする、ということが多くなりました。
それでもある朝、弁当箱が出ていなかったので、どうしようかと思案した末、寝ている兄ちゃんに
「お弁当箱が出ていないんですけど」と声を掛けてみたところ、しばらくして「・・・今日はコンビニで買っていく」という返事があったので、その日はそうしてもらいました。
また別の日の朝、やはりお弁当箱が出ていなくて、声を掛けたら、渋々ながら起きてきて、洗ってくれたこともありました。それでその日はお弁当を作ることができました。
さらに別の日、実はその日ぼくが寝坊してしまい「弁当箱洗ってなかったらいいのに」と思いながら台所に行くと、果たして出ていなくて、その日は弁当を作らず、自分で何とかしてもらいました。
ときにはどういう気まぐれか、夕食の前に弁当箱を出してくることもあります。
そんな日々の中であるとき、
「自分としてはさっさとお弁当箱を出して欲しいし、毎日お弁当を作ってあげたいけれど、それはぼくの課題。お弁当箱を出すか出さないか、そしてその結果に対処するのは彼の課題なんだよな」
と気づくことがありました。
そして、
「お弁当箱どうこうより、それぞれの場面で、彼をどのように『勇気づけ』られるかを考える方がずっと大切なのではないか」
と考えることによって、すっと肩の力が抜けて、気持ちが楽になりました。
*
人生が続く限り、そのとき対処せねばならない課題に出会い続けます。生きてゆくということそのものが、課題のカタマリのようなものなのかもしれません。 だから、どこまで行っても、「これで問題解決、一件落着」なんてことはないんです。
子育てだってそう。これでオッケーというゴールはありません。果てしなく続くたたかい(?)です。
けれど、そんな中で、常に目指すべき、彼方にかがやく星のようなものがあれば、迷子になりそうになったとき、道を照らしてくれるように思います。
ぼくにとっては 「私は能力がある」「人々は私の仲間だ」という「子育ての目標」がそれだし、これは多くのママたち、パパたちとも共有できるはずだと、信じています。