子育てコラム(76)「『与える』という希望」

☆店主カワムラの子育てコラム☆

毎月発行しているメールマガジに連載している、
店主カワムラにによる子育てコラムのバックナンバーを紹介します。
子育ての中で、父として感じたこと、
学んだことを織り交ぜて書き綴っています。
上から目線でアドバイスと言うよりむしろ、
わが子と向き合いながら、迷ったりうろたえたりしてることを
正直に書いているつもりです。
共感したり、参考にしていただければ、さいわいです。

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2022年5月

b-Cafe店主カワムラです。

 「与える」ということについて、考えています。

 早稲田大学教授、向後千春さんが、アドラー心理学を解説する著書の中で「しあわせになるための答えは『他の人をしあわせにすることだ」と述べていました。

 これは、あくまでも、アドラー心理学の視点からの提案、あるいは仮説なのですが、ぼくは深く共感しました。

 アドラー心理学では、人の最も基本的な欲求は「所属すること」であると考えられています。

 人は、人との関わりの中でのみ、人として生きてゆける存在なので、社会の中に自分の居場所を見つけることが、何よりの優先事項なのだとされています。

 そして「所属している」と実感できるための要素として「人々は私の仲間である」「私はその仲間に貢献する能力を持っている」という感覚が挙げられています。

 このように感じられることによって、人は「社会に所属できている」と実感でき、しあわせを感じることができる、ということです。

 ざっくりと表現すれば「人は『与える』ことによってしあわせになれる」と言えるのではないでしょうか。

  *

 けれど「与える」ということには罠がひそんでいます。

 単に「与える」だけなら、簡単なんです。

 自分の持っているものを手渡す。自分の時間や労力を誰かに捧げる。

 相手はそれで喜んでくれるし、喜んでもらえたら、こちらも嬉しい。

 けれど、ただ自分を差し出すのでは、自分の人生が空っぽになってしまいます。

 自分の人生に向き合うためには、勇気や努力が必要なので、「私」を後回しにして人に尽くすのはある意味、楽でもあるのです。

 しかし、それでは、私の人生を生きる人がいなくなってしまいます。

 そうなると、私が私として生まれてきた意味がなくなってしまう。

 私を投げ打ってしまうのではなく、私が目指すこと、できることを、探求し高め続けながら、それを人のために役立てようとする姿勢が必要だと思います。

  *

 「与える」の反対側にあるのは「求める」だと思います。

 生まれてきた我が子を初めて抱いたときは、「与える」ことの喜びに満たされていたのではないでしょうか。

 この子を守りたい、この子をすこやかに育ててゆきたい。この子に何かを返してもらうことなんて考えもしなくて、ただこの子のために何かができることが嬉しい、というような。

 「与える」ことは取引ではなく、それだけで完結した行為です。

 「与える」ということに対して見返りを期待するのは、結局、与えることを通じて対価を得ることを「求めて」いるのだと思います。

 「与える」ことによって優越感を得ようとするのも同様です。

 これもまた「与える」ということにひそむ罠なのだと思います。

  *

 子どもたちにはしあわせになってほしい。

 子どもたちがこれから生きる世界がしあわせに満ちたものであってほしい。

 そう願うのであれば。

 「しあわせ」が「与える」ということなのであれば、子どもたちに「与える」ということを教えてあげたいと思います。

 そのためにはまず、ぼくら大人が「与える」ということを知って、行動し、その背中を子どもたちに見せてあげなければ、と思います。

 エゴから自由になることなど、到底できないぼくらですが、はるかな理想として、そこを目指して、暮らし方を探ってゆくことはできます。

  *

 ロシアによるウクライナ侵攻が続いています。政治の裏側まではわからないのですが、どのように見てもあれは激しく「求める」姿です。

 ああやって求めた末に、仮に欲しかったものを手に入れたとしたら、その後はどうなるのでしょう。間違いなく「もっと欲しくなる」と思うんです。

 また、名の知れた方が自らの命を絶ったという報道が続きます。

 そうするしかない、と思い込まざるを得なかったほどの、辛い状況ではあったのでしょう。

 けれど、彼らはそのとき「世界はもう、私に何も与えてくれない」と思って絶望したのではないでしょうか。

 そうではなく、そのとき「私がまだ与えることのできるもの」について思いを寄せることができていたなら。

 求めたものが手に入れば、もちろん嬉しい。

 けれど、求めることには終わりがないし、求めたものが手に入らないとわかったときに、たやすく絶望してしまいます。

 他方「与える」ということは、それ自体で完結していて、その結果として何かを求めることはありません。

 「与える」ということそのものが喜びであるからです。

 実は「求める」ことより「与える」ことによってこそ、より多くのものを得ることができるのではないでしょうか。生きてゆく喜び、安心感、それから愛も「与える」ことによって与えられるものなのだと思います。

  *

 人はいつでも「与える」ことができます。

 突き詰めれば、あなたが存在しているそのことが、あなたを大切に思う人たちに、何かを与えているのだと思います。

 そう考えれば「与える」ということは、何があろうとも失われることのない、最後の「希望」なのではないか、と思うんです。

 たとえ何も持っていなくても、たとえ病んで床に臥しているとしても、かけがえのないあなたがそこにいる、ということが、誰かに勇気を与えています。

 どうか、そのことを忘れないでほしいと、祈るような気持ちで願っています。