2022年9月
b-Cafe店主カワムラです。
先日、連れ合いと中2の次男との3人で、上映中の「さかなのこ」という映画を観てきました。
お魚大好きタレントでありながら、イラストレーター、魚類学者でもある「さかなクン」の自叙伝を原作とした作品です。主演の、のんさんに好感を持っていたし、内容的にも面白そうだったので「いっとくか」くらいの気持ちで足を運んだのですが、これがギョギョっとすばらしかったので、紹介させていただきます。
主人公ミー坊は、物心ついた頃からとにかくおさかなが大好きで、週末ごとに水族館に通い詰め、食事も魚介類ばかり。
学校に上がってからも、ひたすらおさかなに夢中で、おさかなに関してはすごい集中力を発揮するのですが、それ以外のお勉強はからっきし。
そんなミー坊のことを、お父さんは「ふつうじゃない」と心配するのですが、お母さんは「この子にはこの子の好きなことをさせてあげたい」と、出来うる限りのサポートに努めます。
ミー坊はそのまま中学、高校と進み、社会の空っ風にさらされることになります。
大好きな、おさかなの仕事に就いたものの、思っていたのと違ったり、楽しいと思えなかったりで、職を転々とすることになります。
生きにくさという壁に突き当たったミー坊ですが、それでも大好きおさかなから離れることはせず、というか、それ以外のことはできず、奮闘している中で、差し伸べられた手に救われて、思いがけない展開を迎えるのでした。
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ミー坊のひたむきな姿とそれを取り囲む人々との交流に胸を打たれました。
これはあくまでも「おはなし」なのですが、「ほんとうのこと」もたくさん含まれています。
まずは「好きなこと」にとことん取り組む、ということの尊さ。
人って、案外あやふやな存在で、自分が誰で、何が好きで、どこに向かおうとしているのか、ということを、突き詰めて考えようとすると、ぼんやりとした答えしか持っていないことが多いと思うんです。
幸か不幸か、いまの世の中には多種多様なインプットが溢れていて、それらに身を浸して、取捨選択しているだけでも、じゅうぶん日々を過ごすことができます。
けれど、いつかどこかで、たとえば厳しい逆境の中で、素の自分と向かい合わざるをえなくなったとき、その自分が「空っぽ」だと思い知る恐怖は、相当なものだと思います。
そんなとき「それでも私にはこれがある」と思える何かがあれば、それが光のある方に、自分を導いてくれるのではないかと思います。
映画の中で、ゲスト出演していた「さかなクン」本人扮する「ギョギョおじさん」とミー坊が、夢中になって、水槽を泳ぐおさかなのスケッチをするシーンがあったのですが、二人が心底楽しそうで、こういう経験が、いつかこの人たちを救うのだろうな、と思ったのでした。
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もう一つは「勝たなくてもいい」ということ。
親は子どもが社会に出て生きてゆけるよう、できる限り優位に立てるよう、知識やスキルを身につけさせようとするのですが、それらが余計なお世話であることも、多々あるように思うんです。
「子どものことを思って」と言いながら、実は親が安心するためだったり、子どもをコントロールするためだったりすることが、しばしばあります。
「この子の将来の選択肢を広げるために」とも、よく言うのですが、その選択の先に目指すものが見えていなければ空虚です。
勝ち負け以前に、その子がその子自身として何をしたいのか、何が自分をわくわくさせるのかを知っていなければ、自分自身としての一歩を踏み出せないのではないかと思うんです。
「しか勝たん」ちゃうねん。勝たんでもええねん、ちゅうことです。
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生きてゆくということは、しんどいことだし、世の中には、ままならないこともたくさんあります。
けれど、人はしあわせになるために、生きているのだと思います。
そして、その「しあわせ」は、おのおのが自分で見つけ、つくり出してゆくものなのだと思います。
そのためには、自分にとっての「しあわせ」を知っていなければなりません。
「みんな」がしていることではなく、「みんな」が良いと言っていることではなく「わたし」にとって、大切な、かけがえのない、守り続けたいものを。
親が子どものしあわせを願うのは当然です。
そして、子どものしあわせに力添えをしたいのなら、その子が自分自身のしあわせを見つける手伝いをしてあげたいと思います。
親の(勝手な)理想や夢になんとか近づけようとするのではなく、目の前にいるこの子に寄り添って、この子が見ているもの、手を伸ばす先にあるものを感じ取って。
「さかなのこ」は、ほんわかとした、心温まる映画だったのですが、実は、まだまだ根深く残る、画一的な能力至上主義への、鋭いアンチテーゼが込められているように思います。