子育てコラム(82)「楽しくて何がわるい」

☆店主カワムラの子育てコラム☆

毎月発行しているメールマガジに連載している、
店主カワムラにによる子育てコラムのバックナンバーを紹介します。
子育ての中で、父として感じたこと、
学んだことを織り交ぜて書き綴っています。
上から目線でアドバイスと言うよりむしろ、
わが子と向き合いながら、迷ったりうろたえたりしてることを
正直に書いているつもりです。
共感したり、参考にしていただければ、さいわいです。

  他の「子育てコラム」はこちらから

なお、ポイント会員登録により、
最新コラムを掲載したメールマガジンを配信させていただきます。

   モバイルポイント会員「b-Happyフレンズ」大募集中!

2022年11月

 b-Cafe店主カワムラです。

 店が定休日の日曜日、ときどき保育のアルバイトをしています。

 里親さんたちの会合の間、お子さんたちをお預かりする仕事です。里親さんというのは、さまざまな事情で家庭で暮らせない子たちを迎え入れて養育している方達です。
 
 ぼくが接する子どもたちが、どういう事情で里親さんの元で暮らしているのか、個々の事情はわからないし、数ヶ月に一度、数時間一緒に過ごすだけの子たちなので、どのように接するのが良いのか、戸惑うこともありました。

 けれど、ある時から、一緒に過ごす短い時間を、できる限り楽しく過ごしてもらえたらそれでいいじゃん、と思うようになって、ずいぶん気が楽になりました。

 数年に渡って付き合いのある子たちもいるので、成長や変化も感じられます。

 最初に会った頃は、小学校に上がったばかりで、見るからに荒れた様子で、周りの子や保育者に当たりまくっていた子が、会うごとに穏やかになってゆくのを見ると、ほっとするし、里親さんの尽力に頭が下がる思いがします。

 同じ里親さんの家に、3人の里子と一緒に暮らしているある子が、年下の子に対して、あまりにきつく当たるので、冷や冷やしたことがありました。

 ごっこ遊びをしても、相手はいつも「なかま」ではなく「敵」で、叩いたり、蹴ったり、物を投げつけてきたりします。
 かといって、遊びの輪から外れるのではなく、そうやって闘いごっこを楽しんでいるようにも見えます。こちらは敵役でやられっぱなしなので、その日の保育の後はぐったりでした。

 そんな子に、しばらくぶりに会ったら、ずいぶん表情がやわらかになって、ピアノを習ってるんだ、とメロディーを弾いて聞かせてくれたり、一緒に住んでいる子たちを「おねえちゃん」「おとうと」と呼んで親しんでいる様子でした。
 
 元々の家族の事情はわからないけれど、この子は今の暮らしの中で新しい家族を築こうとしているのだなあ、と思いました。

 最近になってその子と再会した日、良い天気だったので、外に出てボールやフリスビーで遊びました。よく笑ってくれるようになったなあ、とうれしく思いながら部屋に戻ると、その子が、喉がカラカラだけど、もうお茶を全部飲んでしまった、と言います。

 ぼくが「うーん、困ったなあ、仕方がないから、(一緒に暮らしている)◯◯くんのお茶もらう?」と応じたら、

その子は「それはあかん、◯◯は、おとうとやけど、血がつながってないもん。苗字だって、ちがうねんもん」と答えたのでした。

 以前より穏やかになったとはいえ、この子は、ぼくに計り知れない複雑な思いを抱えて暮らしているのだ、という現実を、突きつけられた気がしました。

 そして、そんな子たちと、ほんのひと時を過ごすだけのぼくが、彼らにできるのは、一緒に過ごすその時間を、できるだけ楽しいものにすることくらいだなあ、と改めて思ったのでした。

 ぼくが店を始める以前、1年間だけ勤めて辞めてしまった保育園があります。

 新しく勤め始めた保育園で、いきなり年長クラスを担任することになり、自分の力不足を思い知らされる日々でした。

 そんな中、保育士の話し合いの中で、クラス運営の中で何を大切にしたいか、という話題になったとき、ぼくは「園に来た子が、楽しかったと思って帰れるような毎日にしたい」と言いました。

 後日そのことを取り上げて、意地の悪い(ぼくにとっては、ですが)主任が、他の保育士に向かって「あの先生は楽しけりゃそれでいいって言ってるけど、そんなんじゃダメだろう」と、聞こえよがしに言うのを聞いて、ぼくは反論することができませんでした。

 ダメなことないだろう、とは思いながらも、ぼくには、理想的な保育の場を築く力は到底なくて、結局はその職場をリタイアすることになりました。

 けれど、今になると、やっぱり、あの頃の自分は間違ってはいなかった、と思います。

 そもそも、子どもが子どもでいられる日々が、楽しくなくてどうするんだ、と思うんです。子どもが、今日が終わるのを惜しみながら眠りにつき、明日を心待ちにできなくて、どうするんだ、と思うんです。
 きらきらした子どもの日々を守る以上に大切な仕事が、大人にあるのか、って。

 そんな、子どもの頃の思いが、それからの彼らの人生にどれだけ力を与えてくれるか。

 今のこの世界は、優しさがあふれているわけではないし、暮らしやすい世の中でもないと思います。むしろ、苦しみに満ちている、とぼくは思っています。

 生きてゆくのは苦しい。
 けれど、ぼくらは苦しむために生まれてきたわけじゃない。

 険しい山道のかたわらに咲く可憐な花を見つけるように、手探りの闇の中に差す光をさがすように、幸せを求め続けるのが、ぼくらなのだのと思います。

 そして、その歩みを支えるのが、かつての「きらきらの日々」だと思うんです。

 子どもたちの日々が、楽しくなくてどうする。
 そのために、ぼくらには何ができるのだろう。